早稲田大学の正門近くにかつて茶房「早稲田文庫」という店があった。老夫婦が経営し、熱いコーヒーで学生を迎えた。作家や芸術家も出入りし、1984年の秋、三十五年の歴史に幕を閉じた時は「一つの時代が終わった」と残念がられたものだ。その当時、店で働いていた日下茂さんは今、吉祥寺で喫茶店を経営している。その名も「武蔵野文庫」。日下さんが「早稲田文庫」と出会ったのは大学二年の時だった。「当時は学生運動が激しい時期。学校の近くでアルバイトすれば少しは講義にも顔を出すかな」と。
もともとは主人の冨安龍雄さんの自宅の書庫を学生達に解放したのがきっかけで開いた。明治、大正時代の作家の初版本が本棚に並び、同人誌の学生たちが、よく通っていた。「僕に言わせればおやじさんは自由人。店を切り盛りしていたのは、おばさんですよ」。「おばさん」というのは冨安さんの妻、都子さんのことだ。都子さんは、よく裏の自宅でケーキを焼き、店に出していた。焼きりんごやレモンケーキ、ヨーグルトケーキなど、そのころにしては"ハイカラ"なメニューが並んだ。とりわけ「おからのケーキ」はしっとりとした舌ざわり。

次のページへ

コピーライト